Haves! 第一話 「物語の始まり」
「あ、かあちゃん、おかえりっ!」
駅から出てきた人ごみの中に母親の姿を見つけ、少年は駆け出した。夏の気温のせいで少し走っただけでも汗をかいてしまう。
「純、走ったら危ないでしょう?」
母親は笑いながら少年の頭を撫で、手を引いて歩き出した。
「今日の夜御飯は何がいい?」
「えーっとね、はんばーぐ!」
「昨日もそうだったのに?」
「うん。だってかあちゃんのはんばーぐ、だいすきだから!」
人通りが多い駅前で母親とはぐれないように純はその手を強く握りながら言った。もうすぐ日が沈むというのにまだ蝉は鳴き、まだまだ黙る気はなさそうだった。
「じゃあお買い物して帰りましょうか」
「うん!」
純と母親は歩き出した。
「あのね、かあちゃん、今日がっこうでね、先生にほめられたの! ぼく、くらすで一人だけ、とびばこ、六だん、とべたんだよ!」
「すごいわね、純。じゃあ今日は少し大きいハンバーグにしましょうか」
風が木々の葉を揺らし、純たちの間を通り抜けていく。
駅前のロータリーを抜け、少し歩いて看板を持った銀色のアーチを抜ければそこはもう商店街だ。夕食の材料を求めて人が多く、ごたごたしていた。肉屋の店先では太ったおばさんが店主相手に必死に値切りをしていたり八百屋からは威勢のいい声が聞こえてくる。
はぐれないように母親の手を強く握り締めながら、純はふと顔を上げた。
「あ! かあちゃん、お空! すごくきれい!」
遥か上空からは濃紺の夜が橙色と混ざりあおうとしている空を指差す。ちょうど太陽が西の彼方に姿を消そうとしている空。
「ねえ、かあちゃん。どうしてお空はたくさんの色をもっているの?」
「お空も私たちと同じだから。今日は良く晴れたでしょう? お空は私たちの顔が見られてそれが嬉しくてこんなに笑っているの。雨が降って私たちの顔は傘に隠れてしまうから、見えない。お空はそれが悲しくて私たちと同じように泣くの」
微笑ながら喋る母親の横顔を純はぼーっと見つめていた。
その時。
「あ、じゅんだ!」
不意に声が響いた。純は足を止めて辺りを見た。
そこには純と同じように母親に連れられ買い物にきている少女。
母親同士がこんばんは、と挨拶を交わす。
「じゅんのおうちもおかいもの?」
「うん」
「ねえあそぼうよ! よるごはんまで! ね?」
突然の申し出に純は面食らいながら母親の顔を見た。
しかし、その前に少女の母親が口を開いた。
「駄目よ、天利! 今色々危ないんだから! 変な人にさらわれたらどうするの! ねえ、西原さんもそう思いますでしょう?」
「え、ええ……。最近あちこちで人が殺されていますものね……」
「ね? だから駄目」
母親の言葉に天利はぷう、と頬を膨らませる。
「あまりはだいじょうぶだよ。いざとなったら、じゅんが、まもってくれるもん!」
「お母さんの言うことが聞けないの? おとなしくしてなさい。純くんとはまた昼間に遊べばいいでしょう?」
「だいじょうぶだってば! 行こう、じゅん!」
天利は純の手を引いて駆け出した。
「待ちなさい、天利!」
その声は天利には届かない。
商店街の人ごみを抜け、青信号を確かめて交差点を渡った。入り口にあったものと同じアーチを潜り抜ければそこは住宅街。
「あまり」
「なぁに?」
「よかったの?」
「……うん、あんなおかあさんしらない」
夕焼けの中を二人は走った。あちこちから色々な匂いが漂ってくる。
魚。味噌汁。鰹節。
準備をしている音も色々な種類が聞こえてきた。
包丁。水道。コンロのつまみをひねる音。
「ついたー! なにしてあそぶ?」
たどり着いた空き地で天利は純に訊いた。呼吸を整えながら純は答える。
「かくれんぼとか?」
「それじゃあつまんないよー」
「おにごっこ」
「ふたりで?」
「あまりはなにもおもいつかないの?」
「んー、じゃあね。あの上で、どーん、じゃんけんぽん! やろうよ!」
天利が指差したのは一本の長い土管だった。
「うん、いいよ」
二人は土管の上に登った。そしてお互い反対方向に歩く。
それぞれはしっこに来たところで、向かい合った。
「よーい、どん!」
天利の掛け声で二人は走り出す。真ん中でぶつかった。
「どーん、じゃんけんぽん!」
天利はグー。
純はチョキ。
「あまりのかちー」
「あ」
純は土管から降りた。天利はまた走り出す。じゃんけんで勝ち続け、もう一方の端まで行ってしまえば勝ち。じゃんけんで負けた方はその場所からどいて、再び端から迫ってくる相手に向かって走り、相手がこちらへくるのを防がなくてはいけない。
天利がそこへたどり着く前に純は再び天利の前に立った。
「どーん、じゃんけんぽん!」
今度は純がパー。
天利はグー。
「ぼくのかち」
「うそー」
天利が土管から降りると同時に純は走る。
しかし端にはたどり着けなかった。
「どーん、じゃんけんぽん!」
二人はまたそれを繰り返す。
何回も何回も何回も何回も。
――決着はつかなかった。
二人は土管から降りてそれにもたれかかる。はあはあとお互い息が荒い。
「ねー……じゅんーこんどさー……おかあさんたちがじゅぎょう、見にくるよねー。みほちゃんところは、おじーちゃんとかおばーちゃんとかもくるんだって」
「みほちゃんのおうち、このへんでいちばん大きいから、じゃない?」
「そーなのかなーあまりのとこなんかおとうさんと……おかあさんしかこないもん」
「ぼくは……あまりもうらやましいよ」
「え、じゅんは?」
「かあちゃん、しごとだから……」
「おとうさんは……って……。あ、ごめん、じゅん!」
天利は慌てて頭を下げる。
「ううん、いいよ」
「……じゅん、おとうさんがいなくてさびしくないの?」
「ぼくにはかあちゃんがいるから。さびしくないよ。だいじょうぶだよ、あまり」
純は立ち上がり、笑った。
「純!」
「天利!」
突然、空き地の入り口から声が響く。
母親が二人、そこに立っていた。一目散に自分の子供のところへ駆け寄る。
「さあ、帰りましょう純」
「かあちゃん……」
「天利、よかった。怪我とかしてない? まったく、お母さんの言うことをきかないなんて。お父さんに良く叱ってもらうからね」
「うん……」
母親に手を引かれ、天利は歩き出す。入り口まで行ったところで振り返った。
「またね、じゅん!」
「うん。またね、あまり!」
夕飯を終え、純は明日の支度をするためにランドセルを開けた。
「あしたは、さんすうに、こくごに……あとなんだっけ」
ぶつぶつ言う純の後ろでは、母親が夕食の後片付けをしながらニュースを見ている。
『本日午後四時頃、――県で、若い女性の遺体が発見されました』
『傷口などから、警察はこれを一連の事件の九番目の被害者と……』
「あ、あった、こくご。あとは……」
教科書を入れ替えながら、純は時間割を見ようと顔を上げた。
「あ」
ふと窓の外に浮かぶ月に目を奪われる。
「お月さま……あかい」
普段目にしている金色ではなく、何処と無く紅い月に純は何故か寒気を感じた。立ち上がり、窓枠に手を伸ばす。
「やっぱりあかい」
窓を開け、純はその紅い月を良く見ようと身を乗り出した。
その鼻先を何かがかすめる。純は無意識にそれを捕まえた。
それは銀色に輝く毛。
「これなに? 白い……」
刹那。
純は吹き飛ばされた。
「うわぁっ!」
壁に叩きつけられ、純は痛みにうめいた。
反射的に閉じた目を開く。
「あ……」
そこにいたのは巨大な獣。
頭はヤギ。上半身は熊。下半身は馬。
全身は銀色に輝いていた。
そして何故か右目の上には大きな傷がついていた。
「か、かいじゅう……」
純の語彙の中ではそうとしか表現できなかった。
「純っ? どうしたの?」
物音を聞きつけた母親が部屋を覗き込む。獣の脇を通り抜け純に駆け寄ろうとした。
「かあちゃんっ? 見えないのっ? ねえかいじゅう、見えないのっ?」
純のその声に母親は首を傾げるだけだ。
――しかしその後ろで獣が腕を振り上げていた。
「かあちゃんっ!」
純は叫んだがもう遅い。そのまま無意識に目を閉じる。
その後、聞こえてきたのは
どん
衝撃。
ざくっ
何かが裂ける音。
ざくっ、ざくっ、ざくっ
何度も何度も。
だん
また衝撃。
静かになったので純は恐る恐る目を開けた。
怪物の姿はもう、なかった。
母親が自分をかばうようにして倒れている。
――その背中は赤く染まっていた。
「かあ……ちゃ?」
純は母親をゆする。
「かあちゃん? かあちゃん? かあちゃん? かあちゃん? かあちゃん?」
何度ゆすっても母親からは反応はなかった。
「かあちゃん――っ!」
純は大声で泣き始めた。涙で歪む視界の中に銀色の体毛を見つける。
純はそれを手にとった。
「かあちゃんを……かえせっ……」
その声は誰にも届かなかった。
白と黒の幕の外。
純は黒い服を着せられていた。周りでは大人たちが忙しそうに動いている。
「じゅん」
座り込んでいる純に天利が声をかける。
「あまり……」
泣きはらした目で純は天利を見た。しかしまだ涙が目の淵に残っている。
そんな純の手を天利は握る。強く、強く。
「じゅん、これからはあまりがずっといっしょにいる。ずっとずっとずっと」
「あまり……」
「だからなかないで」
「――うん」
純は目をごしごしと拭った。
―――十年前、とある夏の出来事。