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   「追憶」

 

                       

 

 

 

(もうすぐ陽が沈む。すぐ沈む。

 夜になる。やがて夜になる。

 月が。

 月が、まあるく空を切り取って。

 街に灯が灯される。灯される。

 人々は急ぎ足で我が家へと帰っていく。

 またある人々は付き合いで夜の繁華街へと消えてった。

 すぅ、と夜が息をし始める。

 まだまだ。

 まだまだ、本当の夜にはほど遠い。遠い。

 遠い。

そして人々は自分の仕事や生き様に何も疑問を持たずに

持たずに、持たずに、持たずに。

また今日を生きていく、生きていく。

生きていく。)

 心の中で唄いながら、シズイはそんな風景の中を歩いていた。

 行きかう人々の中、一人で。

 使い込まれた少し大きめのショルダーバック。

ほぼ全身を衣服で包んで。

 だんだんと人通りが少なくなっていく。

 雲の流れが速くなった。出たばかりの月がその光を遮られ、不満の溜息を漏らす。

 木々がざわめく。落ちてきた一枚の葉がシズイの足元を掠めた。

「此処だ」

 シズイは立ち止まった。白くて周囲より一際高い建物の前。

 

『K大学付属病院』

 

 入り口の上部に記されているその名前を確認して、シズイは更に足を進めた。しかし内部には入らず外壁に沿って歩く。そしてある一点で止まった。

 ショルダーバックを開ける。

 中には無数の砂時計があった。

シズイはその中から一つを取り出した。

蒼い砂が見える。それが入った硝子を支えている木枠にはラベルが貼ってあった。

 

『K大学付属病院 六月三日 午後十一時四十分』

 

 びゅう、と突風が吹いた。帽子を飛ばされそうになりシズイは慌てて片手でそれを押さえる。

 そしてもう片方の手で砂時計を握り締めた。

 風が止んだ。

 シズイは深呼吸をした。

 ふわり。

 彼の体は宙に浮いた。

 そのままゆっくりと上昇していく。

 建物にそってある程度の高さまで行くとそこで止まった。

 腕に巻いた時計をシズイは見る。

(午後十一時三十分)

 シズイのすぐ傍には窓があった。カーテンが閉められているため中の様子は伺えない。それでも中の灯が逆光となって、室内に数人の人間が居る事が分かる。その中の一人はベッドらしき物に横たわっていた。

 改めてシズイは砂時計を見た。

 もうすぐ砂が落ちきろうとしていた。

(午後十一時三十三分)

 室内が急にあわただしくなった。

 シズイは何も言わずに硝子越しに人々の影を見つめる。

 また風が吹いた。ところどころに灯っていた部屋の灯が一つ、一つ、と消えていく。建物の玄関先にある電灯も消えかけていた。

(午後十一時三十五分)

 空が急に暗くなった。

 ぽつり。

 冷たい雫がシズイの頬に当たる。それが合図であったかのように雨は勢いを増した。木々が雨の音につられて葉を揺らし負けるものか、と音楽を奏でた。

 月はすっかり雲に覆われてしまっている。僅かな光も漏れてこない。

(午後十一時三十八分)

 不意に室内の影が騒がしくなった。シズイはそっちに目を向ける。

 横たわる人物にすがりつく人々。雨の音に紛れて微かに叫び声も聞こえる。あるいは泣き声も。

(午後十一時四十分)

 シズイが手にしていた砂時計の砂は落ちきっていた。

 雨の音と人々の声が重なる。ざぁざぁという音と濁った聞き取りづらい声。シズイはじっと其処に居た。雨に濡れ、衣服が重くなっているにも関わらず。

 室内から、何かがすり抜けてきた。

 ぼんやりと光る、珠。

「お待ちしておりました」

 シズイは珠にそう言った。

「さあ、参りましょう」

 珠は砂時計の中に吸い込まれていった。

 風が吹いて雲が動いた。

 月がほんの少しだけ顔を出した。

 シズイはゆっくりとまた上昇し始めた。

 今度は止まらずにただただ真っ直ぐに――。

 

 

        ◇ ◇

 

 

 雲を突き抜けた。

 月が綺麗に全身を現していた。

 うっすらとした虹も一緒に其処を飾っている。

 ぶる、とシズイは震えた。

 先ほど雨に濡れてしまった所為なのだろう。早く暖炉に当りたい。

 雲の上に聳え立つ少し青みがかった白い建物にシズイは降り立つ。手にはしっかりと先ほど珠が入っていった砂時計を持っている。

「ご苦労さま、シズイ」

 彼を出迎えたのはシズイよりも少し偉い位置にいる、彼の親友だった。

「ただいま、スマル。はいこれ」

 手にしていた砂時計をシズイはスマルに渡した。スマルはそれを目の高さに持っていく。

「ようこそ、空の上の国に。……ああ、貴方たちの言葉で言えば天国、ですよ」

 にっこりと笑った後、スマルは丁寧に砂時計を持っていた袋に入れた。

「シズイ、早速次の仕事なんですけど」

「その話、後にしてくれない? 服びしょびしょで気持ち悪くって。早く暖炉に当りたくてさ」

「じゃあ、其処に行きながら話しましょう」

 スマルはくるりと後ろを向き、歩き出した。シズイは早足で彼の横に並ぶ。

「で、次はどれ?」

「番号四十二番です」

 ショルダーバックを開け、シズイは中を漁る。

 目当ての物はすぐに見つかった。

 紅い砂が入った砂時計。

 

『U芸術劇場 六月十日 午後三時十三分』

 

 かつ、と乾いた音がする。

 レンガ造りの建物には良く音が響くのだった。

 蝋燭によって明るい廊下を二人は進む。

「此処、何処にあるんだ?」

 砂時計を見つめながらシズイは訊く。

「日本の岐阜県です。そこで一人の少女の最後を看取って下さい」

「はいはい」

 シズイは砂時計をショルダーバックの中に仕舞った。

 廊下の温度が不意に上がる。

 目指す暖炉はもうすぐ。

 古い木製のドアを開けた。

 ――暖かい照明が部屋を包んでいる。

 暖炉の火は明々と燃えており、その周りでは数組の男女が談話している。此処は一種のラウンジのようなものだ。

「お疲れ様、シズイ」

「今日もいつもどおりかい?」

 その中の数人はシズイに声をかけてきた。それに頷きと笑顔で答えながら、シズイとスマルは空いていた暖炉の一番近くの席に座る。

 ふう、シズイは息をついた。スマルは近くを歩いていた給仕に飲み物を頼んでいる。

「あら、シズイちゃーん!」

 甲高い声にシズイは驚いたように半身を起こした。

 見ればお世辞にも煌びやかな――とは言えない。纏っているのは緋色。顔は厚化粧。首や手には無数のアクセサリー。

――どちらかといえば――けばけばしい格好をした女性が立っていた。

 シズイは逃げようとした。しかし遅い。

 その女性に服の裾を掴まれてしまっていた。

「今帰ってきたのぉ?」

「あ、ああ……」

「じゃあ後でウチの店に来てね☆ も〜シズイちゃんがいないとウチの子たち乗らなくて」

「今朝行ったからいいだろう? おかげで仕事に遅れるかもってところだったんだから……少しは考えてくれよ、ミアキ」

「あら、それは建前ね? シズイちゃんに回ってくるのは大抵午後とか夜の仕事だから、午前中退屈させちゃいけないな、と思ってお店でサービスしてるんじゃないの」

 シズイの息が詰まる。

(図星)

 ミアキの顔には勝ち誇った笑みが浮かんでいた。

「と、いうわけで、今夜も来てね☆」

「……ああ」

 悠々とミアキは去っていた。

「……大変ですね、シズイ」

「あの女、なんとかしてくれよ〜……」

 シズイは机に突っ伏した。

 そこに注文を受けた給仕が飲み物を運んできた。

 

 

        ◇ ◇

 

 

 無機質な白い壁の部屋で美穂子(みほこ)はミシンを踏んでいた。

 縫っているのは赤いドレスだった。部屋の中にミシンの音だけが響く。

「あ」

 突然、縫っている感触が軽くなり美穂子は手を止めた。見れば上糸がなくなっている。美穂子は傍にあった余分のミシン糸を取り、糸をかけなおした。そしてまた縫い始める。

 外から入ってくるやわらかな太陽光が美穂子の頬を照らす。少しだけ窓が開いているのでそこから風も入ってきた。ベッドの横の棚の上に置いてあるたくさんの花が揺れる。風が美穂子の長い黒髪を撫でていく。その感触に微笑みを浮かべながら美穂子はミシンを踏み続けた。

 コンコン。

 控えめなノックの音。

 美穂子は足をペダルから離した。

「美穂子、入っていいかい?」

「ええ」

 美穂子が返事をすると、二人の男女が部屋に入ってきた。

 いずれも歳のころは中年にさしかかっている。おそらく彼女の両親なのだろう。

「体の調子はどうだ?」

「まあまあよ」

「そうか。今日は美穂子がもっと元気になるように鯖缶を持ってきたぞ! これを食べれば元気百倍だ!」

「もうあなたったら。それはあなたの好物じゃありませんか」

 その言葉に美穂子は笑った。

「何時仮退院だったかしら?」

「明後日よ、母さん」

「先生は良いって?」

「ええ。舞台に立ってこいって」

 美穂子はついさっきまで自分が縫っていた衣装に目をやった。長袖で、襟ぐりにはフリルがついている。

 それを着て美穂子は今度――。

「……っ、げほ、がほっ……」

「おい美穂子、大丈夫かっ?」

「え……ええ、父さん……」

 肩で息をしながら美穂子は落ち着きを取り戻した。

(お願い。もう少しだけ我慢して……私の体。私に歌わせて頂戴)

 美穂子はそう祈った。

 

 

        ◇ ◇

 

 

 シズイが再び雲の下へと降り立ったのは、彼が雲の上へと戻った日から一週間後だった。

 ビルに囲まれた場所に彼は立った。時間帯としては昼頃なのだろう。目につく飲食店は何処も混んでいる。子供の姿はほとんどない。たまにお洒落に着飾った母親らしき人の手に引かれて一人、二人見るだけだった。少し早く来てしまったな、とシズイは思う。今日は珍しくミアキが寝込んでいたせいで、いつもの午前中の暇つぶしもなくなってしまった。

 けれど、ゆっくりと雲の下の世界を見ることなんてないよな、とシズイは思い直す。

 良く晴れているせいか暑かった。太陽にさらされコンクリートが熱を持ちはじめている。その熱が放出され、更に気温は上がっていく。

 シズイはこの時ばかりは自分の格好を恨めしく思った。暗めの色で統一された衣服は熱をどんどん吸収していく。汗が全身から出てきて、シズイは気持ち悪くなってきた。けれども我慢しなければならない。

 目的地に向かってシズイは歩き出す。少しずつ道を行きかう人が多くなってくる。誰もシズイのことなど見ていない。気付きもしない。

 ゴミ箱の傍にちょこんと座った猫が眠たそうに欠伸をした。けれどそれに気付く人もいない。

 人々は皆が皆、自分の目的に向かって歩いていた。

 シズイは少しだけ溜息をつくと、歩みを速めた。

 ビルの間を抜け、緑あふれる公園を横切り、木々が左右に立ち並ぶ散歩道を過ぎる。そうするとかなり大きい建物があった。

其処がシズイの目的地だった。

建物は硝子張りで、太陽の光を受けキラキラと輝いている。中を伺えば幾つもの立派な扉が見えた。数人の人が行き来をしている。事務的な制服らしき物を着ている人。黒と白だけの毅然とした服装の人。

シズイはその建物に近づいた。入り口の傍に大きい石が置いてある。それにはプレートが打ち付けられてあった。

 

『U芸術劇場』

 

 シズイは建物の中に入った。

 空調が効き過ぎているせいか、少し寒い。現に案内所らしき場所に座っている女性は制服の上にカーディガンを着ていた。

「あの天才少女が今日歌うんですって」

「そうなのか。聞きたかったな。知ってたらチケット取ったんだが……」

催し物の掲示板を見て話をしている中年夫婦の横を通り過ぎ、シズイは一番奥の扉に近づいた。中から微かに音が聞こえる。それにつられるようにシズイは扉を開けた。

 開けた途端、明るすぎる部屋にシズイは目を細めた。その光に慣れるまで数十秒かかった。ゆっくりとシズイは目を開けていく。

 明るすぎる原因は天井に備え付けられた豪華なシャンデリアの所為だった。それが一つではない、三つも天井を彩っている。溜息をついてシズイは視線を下ろしていった。

 千人は座れるであろう客席があった。舞台があった。更にその奥には巨大で立派すぎるパイプオルガンが置かれていた。それを弾くであろう女性の姿もあった。

 そして舞台の上には赤い衣装を纏った少女が立っていた。

 少女が後ろを振り返り、女性に合図を送る。女性は頷いて手を鍵盤のところにおいた。弾き始める。

(さっきの音はこれだったのか)

 そう思いながらシズイは舞台に近寄っていった。客席の右側の壁にあるデジタル時計が目につく。午後十二時三十分。

 

「――森を抜けて、野原を過ぎて」

 

 パイプオルガンの音に合わせて少女が歌い始める。思わずシズイは足を止めた。広い空間に少女の声が響く。

「谷間行けば 聞こえる

 こだまの声

貴方の声?

私には分からないけれど」

 少女は静かにけれど力強く歌っていた。けれどもシズイにはそれが何処か悲しげに聞こえた。

 直感。

 ――きっと数時間後にこの世から去るのはきっと――。

「暗い森で

 ひとりきりで 

 こだまに、貴方に何度も呼びかける

 ここに来て 

 お願いだから 傍にいて」

 歌い終え、少女は深く深く息を吸った。何度も何度も。額には汗が浮かんでいる。

 不意に少女はバランスを失ったのか、よろけた。

「美穂子!」

 パイプオルガンを弾いていた女性が少女に駆け寄る。

「大丈夫? 大丈夫、美穂子っ?」

「大丈夫よ……母さん」

「やっぱり無理なのよ。ね? 病院に戻りましょう?」

 女性は少女の顔を不安げに見つめる。

「駄目よ」

「美穂子」

「私の歌を楽しみにしてくれているお客さんがいるのよ。その人たちに申し訳ないわ。――私の一年ぶりの舞台。それを楽しみにしてくれている人が」

 少女は女性に支えられながら立ち上がった。そして舞台から降りる。

 シズイのすぐ傍を通って二人は外へと出て行った。無論彼の存在には気付かずに。

 ただ広い空間にシズイは一人残された。何故か目が痛い。頬が動かない。こんなことは今までに一度もなかった。

 自分の腕時計を見る。

(午後十二時五十分)

 やっぱり早く来すぎた、とシズイは後悔した。いつものように適当に時間を潰して、ぎりぎりにくればこんな場面を見ずに済んだ。いつもどおりに仕事が出来た。シズイは手を握り締めた。

 空調の風が当たる。シズイは頬にひんやりとした何かを感じた。

 ――それはこの風の所為だと、シズイは無理矢理思った。

 

 

        ◇ ◇

 

 

 控え室で美穂子は深呼吸をした。鏡に映る自分の顔を見る。化粧のせいで明るくなった肌。けど実際はこうではない。飲み続けている薬のせで顔色は相当悪いはずだった。

 時計を見る。午後二時四十分。

 あと二十分ほどで舞台が始まる。久し振りに歌う。

 部屋の片隅には無数の花や贈り物が置いてあった。どれからも『頑張ってください』というオーラが出ている。

 美穂子は嬉しく思いながらも何処かで首を振っていた。無理に薬で病状を止めているのだ。いつかきっと限界が来る。

 今だって――。

「美穂子」

 母親が顔を出した。

「もうそろそろ舞台に行く時間よ」

「はい」

 美穂子は机に手をついて立ち上がった。一瞬目眩を覚える。深く息を吸って体を宥めた。

 手を差し出した母親に微笑みで首を振って、美穂子は控え室を出る。

 廊下の質素な照明。汚れた壁。所々に詰まれたダンボール箱。他の舞台を控えている歌手や俳優、女優たちが美穂子を心配そうに見ている。それらにも笑顔で答えながら美穂子は歩いた。角を曲がり簡素なドアを開ければもう其処は舞台裏だった。パイプオルガンがその背面をさらけだし、最終的な調整の最中だった。暗幕によって舞台からの光は遮られている。観客のざわめきが美穂子の耳に入った。きっと満員なのだろう。そう思うほど、会場はざわついていた。

 美穂子は時刻を確認する。

 午後二時五十分。

「……美穂子」

「大丈夫よ、母さん」

 精一杯の笑顔を美穂子は浮かべた。そしてまた息を吸う。胸の動悸が微妙に早くなった。少しだけ寒い。

 調整が終わったのか、男性がパイプオルガンの蓋を閉めた。

「ありがとうございます」

 お礼を言い、美穂子は頭を下げた。調律をしていた男性は照れ笑いを浮かべ、会釈をする。

「五分前です」

「……はい」

 美穂子はまた大きく息を吸った。自分の体を宥める。弱々しい鼓動を強くしようとした。

(お願いだから、もう少しだけ待って――私の)

 そう自分に言い聞かせて、美穂子は暗幕に手をかけた。

「――出ます」

 美穂子はそれをめくり、舞台上に出た。

 客席の照明はすでに落とされており、そこに何人の人がいるのかは正確には分からない。けれどきっと満員なのだろうと美穂子は思った。

 舞台上がスポットライトで照らされている。何も置いていない舞台。純粋に彼女の歌だけを待っているだけであろう舞台。

 美穂子は舞台の中央まで歩いていった。静かな空間の中、観客たちの呼吸が微かに聞こえる。暗闇の中から舞台上の自分に向けられている視線も分かった。

 彼女は立ち止まった。

 そして一礼する。

 拍手が巻き起こった。

 後ろのパイプオルガンの奏者席に美穂子は視線を送る。

 その視線を受けた彼女の母親はゆるやかに演奏を始めた。

 

「あの人に好きと伝えて

 もう影に怯えなくて済むように

 あの人に好きと伝えて

 私は何時までも待っているから」

 

 広い空間に美穂子の歌声が響く。

 鮮やかで透明な声。

 その声に観客全員が聞きいっている。

 ある男性客は目を瞑り、

またある女性は食い入るように美穂子を見つめている。

曲が終わる。

美穂子は一息ついた。次の歌に入らなければ。

呼吸を整えたところで、始めて、と後ろに伝えた。

二曲目が始まる。

 

「忘れかけた何かを探す

それは私にとっての宝 貴方にとっても宝

 貴方がくれた花束 今もまだ咲いてます

風が運んできてくれた夢 もう振り返らない」

 

 そこまでを美穂子は順調に歌い終えた。

 

 ――刹那。

 

「あっ!」

 急激な胸の痛みを美穂子は覚えた。呼吸が苦しい。いきなり寒気がした。

(どうして)

 まだ歌うべき歌は残っている。折角聞きに来てくれている人に悪い。それなのに足元がふらついて、立っていられない。

 ついに美穂子は舞台上で倒れてしまった。

 いっせいに観客席がざわつき始める。

「美穂子さん!」

 舞台袖から関係者たちが出てきた。

 美穂子はぜいぜいと呼吸を荒くしているだけで動けない。

「美穂子!」

 母親が駆け寄る。

「誰か、誰か救急車を……っ!」

 美穂子はだんだんと意識が遠のくような感じを受けた。

 

 

 

 ――シズイは時間を確認した。

(午後三時十一分)

 あと二分であの少女の命は終わる。砂時計の紅い砂も落ちきろうとしていた。

 シズイは何故か困惑していた。

 今までは何事も感じていなかった。けれど今回は心が痛い。このまま少女の命を持ち去ってしまうことに罪を感じる。

(歌わせてやりたい)

 力強く生きようとしているあの少女を。

 砂時計をシズイは見た。

 あと一分。

 ここで砂時計をひっくり返せば、あの少女の命は延びる。しかしそれは――。

(重罪)

 もしかしたら自分はその存在を消されてしまうのかもしれない。

(それでも)

 あの少女に歌わせてやりたい。

 あの少女の歌を聞きたい。

 

 シズイは砂時計を――ひっくり返した。

 

 

 ◇ ◇ ◇

 

 

 急激に意識が戻り、美穂子はゆっくりと起き上がった。

「美穂子!」

「大丈夫よ……母さん」

 観客席のざわめきが大きくなる。

 不安そうな顔をする関係者たちに美穂子は笑顔を見せた。

 そして言った。

「皆さん、心配をおかけしてごめんなさい――もう大丈夫です」

 その言葉に観客席からは拍手が起こった。

「母さん、三曲目を弾いて」

「でも……」

「私は大丈夫」

 娘の言葉に母親はしぶしぶパイオルガンの前に戻っていた。関係者たちもそれにつられるようにして舞台袖へと戻っていく。

 また空間に音が流れ始めた。

 

「貴方に出会うために私は生まれた

 貴方に出会うために私は生まれた

 貴方と出会い、私は目覚めた

 貴方を守る

 それが私の役目だと

苦しいことも何度もあった

だけど後悔はない

そうでしょう?」

 

 まだ若干の胸の痛みを覚えながら美穂子は歌い出した。

 

 

 

「シズイ!」

 唐突に声をかけられシズイは振り返った。

 スマルが何時の間にか其処にいた。

「シズイ、なんてことをしたんですか!」

「スマル……」

「幾ら可哀想だからって言って――しかもそんな感情を持つなんて……どうして」

「俺にも分からない」

 シズイはスマルから視線を反らした。少女の歌声が二人の間にも響いている。スマルは無言で砂時計をシズイから奪った。シズイは抵抗しない。

 スマルは砂時計をひっくり返した。

「上に報告しますよ、当然ですが」

「分かっている」

 シズイは舞台上の少女に目をやった。歌い続けている少女。彼女の運命を知っている自分。

 ――胸が痛い。できればこのまま。

「シズイ」

 スマルは彼の後姿に声をかけた。

「貴方は彼女に」

 その後の言葉は巻き起こった拍手にかき消された。

 

 

        ◇ ◇

 

 

 全ての歌を歌い終え、美穂子は控え室に戻った。

 時刻は午後四時十分。

「美穂子、お疲れ様。大丈夫?」

 母親が控え室に入ってきた。

「ええ、なんとか」

「美穂子の好きなオレンジジュース、買ってきたわよ」

「ありがとう」

 受け取って、美穂子は飲み始めた。甘酸っぱい味が口の中に広がる。

「お父さんがね、この後お食事に行きましょうって。あのいつものお店、予約してあるらしいから」

 母親の言葉に美穂子は笑顔で頷いた。

 やり遂げたという充実感が美穂子の中に広がっていた。

 それに生きているという実感も。

「着替えてくるね」

 美穂子は仕切りカーテンの向こうに消えた。

 

 

 

 身支度を終え、美穂子と母親が劇場の外に出たのは午後四時半をまわった時だった。

「美穂子、タクシーで行きましょう」

 歩いていこうとした娘を、母親は止めた。

「今日は歩きたい気分なの、母さん」

「でも」

「いいでしょ」

 母親の返事を待たず、美穂子は歩き出した。

 空はまだ明るい。夏に向かっているこの季節。どんどん昼間の時間は長くなっている。

 その空を鳥が何羽か通り過ぎた。

 ざあ、と風も吹きぬける。

 美穂子の髪が揺れた。

 木々が立ち並ぶ散歩道に美穂子は足を踏み入れる。葉が揺れ、心地よい音を作り出している。学校帰りなのか子供たちの声も聞こえてきた。ちりん、という鈴の音。きっと夕方の買出しに出ていた主婦の自転車の鈴だ。

 向こうからは大きな話し声。見ればこれから遊びに出かけようという雰囲気の女子高生たちがおしゃべりをしていた。

 散歩道の先にあった公園を抜ける。そうするとそこはもうビル街だ。その一角に美穂子たち家族の行きつけの店がある。

 まだ仕事中、といった顔の男性や女性とすれ違う。美穂子を見て足を止める人間は何人かいたが、時間がないのか悔しそうにその場を去っていく。

 ビルの谷間に作られた噴水には休憩中と思われる人々が座っていた。上を向きぼうっとしている。

 噴水には仕掛け時計があった。文字盤の下に幾つもの小さな扉がある。それが動いたところを美穂子は何度か見ていた。一時間ごとにその扉は開き、中から小さな楽隊が現れ、軽やかな演奏をするのだった。

 四時四十五分。

「母さん、お店は何時に予約してあるの」

「五時よ、お父さんとは向こうで落ち合うことになってるわ」

「分かった」

 美穂子は噴水の傍のベンチに座った。ふう、と息をつく。

「えっ?」

 

 どくん。

 

 急に心臓が跳ね上がった。そしてそれは痛みを伴うものへと変わっていく。

「待っ……て……どうしてっ……」

 ずる、と美穂子は椅子から滑り落ちた。

「美穂子!」

 母親が急いで娘にかけよる。持っていた鞄から薬を取り出し美穂子に飲ませようとした。しかし苦しんでいる人間にそうするのはかなり難しい。

「美穂子っ……美穂子、美穂子、美穂子っ……!」

「母……さん……」

 美穂子の視界は霞み始めていた。母親の顔が見えない。空が白みを帯びていく。木々の緑も遠のき始めた。

(私……とうとう……)

 

 ――美穂子は意識を手放した。

 それを彼女が二度と、手にすることはなかった――。

 

 

 ◇ ◇ ◇

 

 

「まさかシズイがそんなことをするとはな」

「はい、全くです」

 スマルは目の前の人物に同意した。

 人間たちから神と呼ばれるその人に。

「ツカサ様、シズイをどうなさるおつもりで?」

「決まっている。その存在を消す。人間の定められた命を九十七分間も延ばした罪は重い。重罪だ。よって一番重い刑に処する」

「一番重い……」

「――何か言いたそうだな、スマル?」

 ツカサはスマルに視線を送った。窓の外から入ってくる月の光が彼らの横顔を照らす。

「ツカサ様。シズイはこれまで良く働きました。それを考慮して、せめてもう少し軽い刑を」

「駄目だ」

「ツカサ様」

 スマルはツカサに一歩近づいた。

「あの少女は人々を惑わす魅力を持っていました。人々を惹き付ける力を」

「それにシズイも嵌ったと言うか?」

 ツカサにスマルは頷く。

「そんな力を持っている少女だったからこそ、下の世界であんなにも有名だったのでしょう。確かにあんなことをしたシズイにも罪はありますが、少女の方にもある種の罪があります」

 スマルは言葉を切った。じっとツカサの出方を見る。

 月が雲に隠れたのか室内が暗くなった。

 薄闇の中でスマルはツカサを見つめ続ける。

「――……一目惚れ。そのような言葉が下の世界にはあったな」

「ツカサ様……!」

「シズイには二番目に大きい刑を与えよう」

「ありがとうございます、ツカサ様!」

 スマルは一礼をして、部屋を出て行った。

 

 

 

 シズイはとある部屋に閉じ込められていた。

 何もない部屋。明り取りの窓から月の光が入ってくる。それが唯一のこの部屋の光源だった。

 シズイは後悔していなかった。

 あのとき砂時計をひっくり返したことを。

「――シズイ」

「シズイちゃん」

 扉の外から声がした。

「スマルにミアキ。……俺はどうなるって?」

「極刑は免れました。二番目に大きい刑に処せられるそうです」

「二番目に大きい方で」

「刑の執行は三日後ですって」

「……スマル、ミアキ」

 シズイは扉へと近寄った。しっかりと施錠されているそこが開くわけはない。

「色々とありがとう。もうお前たちにも会えなくなるんだな」

「……はい。ですがシズイのことは忘れません」

「あたしもよ。シズイちゃんとやった馬鹿騒ぎは忘れないわ」

「俺もお前たちのことは忘れないよ」

 その言葉が終わって数十秒後、扉の向こうから気配が遠のいた。

 足音が響く。

 シズイはその場に座り込んだ。窓から風が入ってくる。

 冷たい風。

 シズイはまた目が痛くなった。

 

 

 ◇ ◇ ◇

 

 

 太陽がその日一日の仕事を終え、地平線の彼方へと姿を消そうとしている。

 代わりに月が顔を出しかけていた。

 昼と夜の中間時間――夕刻。

 ビルの谷間にシズイは立っていた。

 人々がぼうっと立っているシズイに訝しげな視線を送りながら去っていく。関わるのを避けるように。

 不意に彼の傍にある木が揺れた。そこに止まっていた鳥が飛び立ったのだ。

 空の向こうへと消えていく姿にシズイは自然と苦笑する。

「俺の代わりかな」

 シズイは呟いて、歩き出した。

 暫く歩いていると開けた場所に出る。

 ビルの隙間を利用した広場だった。

 噴水が夕日を浴びて光っている。その周りには何組かのカップルがいた。いずれもベンチに座り、仲良さそうに喋っている。

 シズイは空いているそれに腰を下ろした。噴水を見上げる。大きな仕掛け時計が目に入った。

 時刻は午後四時五十五分。

 シズイは息を一つ吐き出した。

 ふと、噴水の前に花が飾られていることに気付く。それも一束や二束といった量ではない。軽く見ても二桁はいくであろう数が供えられていた。

「……これは」

 ああそうか、とシズイは納得する。

 此処はあの少女が死んだ場所なのだ。

シズイは目を閉じ、周りの音を聞いた。人が喋る音、風の音、噴水の音。鳥の鳴き声。

「死……か」

 それはやがて自分にも訪れるようになってしまった。日々老いていく体が分かる。今まで経験したことのない感覚。

 初めて知ったことはまだたくさんあった。

例えば死んだ人を導く仕事をする者をこちらの言葉で天使と言うらしい。天使とは神に仕える存在で歳も取らず、何年たってもその外見はそのまま。

確かについ一ヶ月前までの自分に当てはまるな、とシズイは自嘲する。その特権とも呼べるものを失いただの人間となった自分。

 

罪への罰。

 

 ふとシズイは眠気を覚えた。周りの音がだんだんと遠くなる。瞼が重い。目を開けていられない。

「ん……」

 人目を気にせず、シズイはベンチに寝転がった。

 ――遠くからあの少女の歌声が聞こえる。

『苦しいことも何度もあった

だけど後悔はない

そうでしょう?』

 

「ああ……」

 少女に答える。

「そんなもの……あるわけがない……」

 そのままシズイは眠りについた。

 時刻は午後五時。

 

 噴水の仕掛け時計が動き出した。

 

 

 

 

 

                    ――――Конец




これは結構最近……かな?
書くにあたってお題が出されていまして、それを使って書いた小説です。
どれがお題か分かりますか?



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